私はこれまで「普通」に縛られて生きてきました。
ここで言う「普通」とは目に見えない呪縛のようなものです。
「普通は高校を卒業して大学に行く」
「普通だったら大学を中退なんてしない」
「夢なんて追いかけたってしょうがない。普通の私には叶わない」
「大学を卒業したら安定した職業に就き、普通のサラリーマンをやる」
「普通結婚したら結婚式を挙げる」
「家庭を持てば普通家を建てる」
「普通仕事はサボらない」
「親に感謝し、親孝行することは普通だ」
もちろん誰かに言われて「普通」に縛られていた訳ではありません。
強いて言えば最終的には「自分」で自分を「普通」という枠に押し込めることで不自由の中の自由を満喫していたようにも思える節があります。
でも、年を重ねるごとにこの「普通」に対しての疑念がふつふつと湧き上がってくるのです。
「普通」とは一体なんだったのだろうか、考えてみたいと思います。
普通とは
[名・形動]
特に変わってないこと。ごくありふれたものであること。
それがあたりまえであること。また、そのさま。
[副]
1.たいてい。通常。一般に
2.俗に、とても
「普通」を辞書でひくとこのような意味合いだと教えられます。
私にとって「普通」とは「当たり前」と同義だったように思います。
高校を卒業して大学に進学することは当たり前(普通)
といった感じです。
普通が当たり前でした。
そうやって生きてきたんです。
でも気づいたら、「普通=当たり前」に縛られて、
「〇〇するべき」な人生を送り苦しんでいる自分がいたのです。
誰かの作った「普通」に生きる?
親の教育
私の親はよく「普通そういうことはしない」と怒る人たちでした。
3兄弟の長男だった私は、他の兄弟以上に「普通」であること、そして「兄」であることを
求められていました。
(後になって、実際には求められていたのではなく「求められていると思い込んでいた」だけかもしれないと思いましたが、その真相はもう定かではありません。)
「普通」でいることを強く望まれ、教えられてきた私は気がついたら「普通な私」でいることが「普通」になっていました。
「普通」でいるよう自分を抑制することが当たり前になっていたのです。
要するに私は心のどこかで「親の普通」に従って生きていたのだと考えられます。
周囲の環境
友人や職場の人など、その一人ひとりの中に「普通」がありますが場合によってはそれを相手に押し付けるような人もいるでしょう。
その中で「そうか、これって普通だったんだ…」思うこともありました。
私の「普通」は間違っていたんだと、そう思わされるのです。
そうやって「普通」のアップデートを繰り返している内に一つのことに気づきます。
普通って人それぞれじゃないか
当たり前のことですが、それぞれの言う「普通」は違うんです。
似ていたり似ていなかったり、といったことはもちろんありますが、全く同じ「普通」なんてこの世の中にどこにも存在しません。
これってもう、「普通」じゃなくないですか?
よく考えてください。
普通とは
[名・形動]
特に変わってないこと。ごくありふれたものであること。
それがあたりまえであること。また、そのさま。
[副]
1.たいてい。通常。一般に
2.俗に、とても
でしたよね。
みんな違うんですよ。変わってるんです。
みんなが「普通」って言うからありふれてはいますけど、それぞれ何も当たり前なんかではないんです。
自分にとっての「普通だったら〇〇するよね」っていう「普通」を振りかざしているような人たちは、
自分の在り方を人に押し付けているのと同じようなものなのではないでしょうか。
だから私は、誰かの「普通」に生きてきたそれ自体に疑念を抱いたのでした。
普通に縛られなくていい。私は私、あなたはあなた。
ここまでの人生、親の「普通」に生きたり、周囲の人の言う「普通」に生きたりしてきました。
20数年、長い時間でした。
でも最初にも触れたように、それは誰かに命令されて従っていたようなものではありません。
潜在的な「普通」に対する束縛感はあったものの、それを切り離せずに要所要所で人の「普通」に則っとり生きることを選んできたのも自分だったのです。
なぜなら、それはある意味で楽だからです。
自分にとっての「普通」で生きることは、時に反感を呼ぶこともあるでしょう。
先ほども言ったように、自分の「普通」を振りかざす人はこの世界に五万といます。
人それぞれでいいはずなのに、自分の「普通」と一緒じゃないと許せない人がいるのです。
そういった人と対峙した時に違う「普通」と「普通」のぶつかり合いで傷を負わされることもあるでしょう。
でも、そんなのは「視野の狭い人だ」と、そう放っておいたらいいんです。
私は私で、あなたはあなたです。
まとめ:普通とか普通じゃないとか、気にせずに生きてみよう
「普通」という誰かの決めた尺度の中で生きることを選ぶと、人生の多くで「普通であるために〇〇するべきだ」という選択を取らなくてはいけないことがあるでしょう。
でも「〇〇するべき」で選んだ選択に、本当の意味で自分の意思はこもっていないかもしれません。
また、「するべき」という状態では人は本領を発揮できないと言われています。
最後の最後は「普通だとか普通じゃないとかは置いておいて、一体自分はどうしたいのか」を考えて選択することが重要ではないでしょうか。
しかし、もちろんこれらのことは「普通」を生きる人を否定するものでもありません。
それを自分が選択しているならそれもまた一つの道です。
自己を尊重し、相手を尊重する。
そうすれば「普通」とか「普通じゃない」とかはそんなに大きな問題にはならないかもしれませんね。
「普通」に縛られず、自分の道を悔いなく、あなたらしく生きてみましょう。
それでは!